文庫本『一日一鼓 Ⅰ』
出版|COMOInc.
473ページ
9月15日(日)14:00
COMO Inc.【online shop】にて販売開始
【収録作品】
・2023.08〜2024.06の一日一鼓 + 短編作品
・『翠雨と言うらしい』(翠雨シリーズ)
・書き下ろし短編( 2024年7月の一日一鼓)
【コメント】
140字の #一日一鼓 が473ページの本になりました!
一冊の本となった一日一鼓集を読んでいただくと
隠れた繋がりが見えてくる構成になっています。
若杉栞南
各月抜粋 順次掲載中
p.36|一日一鼓 Ⅰ 8月『入道雲が絵画のように姿を見せる、ある日に向けた物語』
ワタシの代わりに空が泣いて、ワタシの為に踊っているかのようだ、と思う。
27歳で喪主を務めることになるとは思っていなかったが、儀式的な母との別れの場で何度となく耳に入った「まだ若いのに」と言う言葉がその現実を突きつけた。
「まだ若いのに、亡くなられたなんて」
「まだ若いのに、これから一人で大変ね」
誰に対しての“まだ若いのに”だったのか。…もう、誰に対してでも良かった。もうどうでも良かった。そんなワタシの乾いた心を弄ぶように、気づけば雨が降っていた。
母がよく連れて来てくれたこの温泉に、今はワタシひとり。誰もいない露天風呂に雨粒がポツポツと降り注ぐ。ワタシの代わりに空が泣いて、ワタシの為に踊っているかのようだ、と思う。もちろんそんなことはないのだけれど、今日くらい、そう思わせてほしい。
突然のことで、未だ涙も出ないこの現実をワタシは受け入れられずにいた。父も、母も、彼も、そしてワタシも、時に変な行動を取ってしまう。でもそれが人間なのかもしれないし、その行動の末に待っている生活が人生なのかもしれない。…なんて、綺麗な言葉で片付けられるほどワタシはよくできた人間じゃないし、なんでもウェルカムな人間でもなかった。
あぁ、そうか。ワタシは…ワタシは消えてなくなってしまいたかったんだ。
「消えてしまったらどんなに楽だろう」
そう思った途端、言いようのない悲しみが襲ってきた。ワタシの置かれた状況に対してじゃなく、ワタシが過去に犯した罪に対してでもなく。あんなに好きで、こんなに憎い母と同じ道を辿ろうとしていた今この瞬間に対して悲しみと絶望が襲いかかった。皮肉にもワタシは、消えてなくなりたいという想いに気づくと同時に、消えてなくなるわけにはいかないと心を決めることとなった。
どんなに幸せでも、どんなに絶望していても、平等に時間は進んでいく。時に残酷に、時に救いのように。母が残した大きすぎる持ち物をただじっと眺めていた。改めて見ると、なんとも立派でなんとも不便なところに佇んでいるその家。じっと見つめてポツリと呟く。
「また、来るね」
前は、玄関の前で微笑む二人に向けた言葉だった。今はなんだか寂しそうな、居心地の悪そうな雰囲気を醸し出した「ただの家」が佇んでいるだけだった。思い出してみたけれど、ここに家が建ってからワタシは両親の顔色を見て育ってきたように思う。喧嘩が絶えなかったと思えば、父が病気になってから母は半ば依存のように父に寄り添った。あれが、母の愛だったのだろうか。ワタシはあんなふうに誰かを愛せるだろうか。
「あぁそうか…」
なんだか寂しそうな、居心地の悪そうな雰囲気を醸し出していたのは、ワタシなのかもしれない。この家にも、家族にも、居心地の悪さを感じていたのかもしれない。
ピコンと音を立てたスマホには彼からのメッセージ。
「帰りは何時ごろになりそう?」
ワタシの居心地の良い場所は借り物の家と生涯を共にする気があるのかもわからない彼の隣だった。ワタシたちの住むしらさぎ荘の横には、大家さんが経営するコインランドリーがあった。“しらさぎ荘価格”で洗濯ができるから、ワタシたちは洗濯機を買うこともなく、コインランドリーに通った。
時間内に洗濯を終わらせようと忙しなく回り続けるこの洗濯物は、まるでワタシかのようだった。色んなことがあって、弔いを作業のように済ませなくてはいけないほどに追い詰められていたんだなと洗濯機の回転を見ながら思う。“ある出来事”は、そんな夜に突然やってきた。
「今日こそ、だと思って」
と差し出されたのは、リングケースほどの膨らみを帯びた紙袋と一輪の花。見上げた先にあったのは、凛とした表情。彼のそんな顔を初めて見た。
「不幸を半分分けてほしい」
p.104|一日一鼓 Ⅰ 9月『大したことない世界で僕は』
初恋らしいよ
「あんた、どこから来たの? この辺の人じゃないでしょ? アタシ勘だけは鋭いのよ。こう見えてアタシね三児の母やってたからさ」
こう見えてって、どう見えてると思ってるんだろう。長いバスの最後尾に座る僕には逃げ場なんてなく、あっという間におばさんの世界。あぁ、しまった。って、思っていたけど、おばさんの世界は時間が三倍速で流れるみたいで、気付いたら降りるのも忘れて終点だった。終点につくとさっさとバスを降りるおばさん。どこまでサッパリしてるんだって感じ。
本当に申し訳ないけど僕は「変なおばさん」だと思っていた。
だって、全く恥ずかしげもなく自分のことを話すから。三代欲求に次ぐ「承認欲」を包み隠さず見せるから。
可愛いだけだった息子がもう32歳でバリバリ働いていて、そんな息子を育てた誇りを胸に生きる60歳のおばさん。彼女は、自分を好きなことに誇りを持っていた。最高のナルシストだった。そしてなんだか…かっこよかった。考えてみれば、僕は自分を好きになったことなんてこの18年一度もなかった気がする。学校で「祭」と名のつくものは楽しめないし、人前ではうまく話せない。好きな人が出来ても告白ひとつできない。自分の頑張りも、過去のむず痒さも、誰かへの好意も、何も認められない自分がなんだか恥ずかしくなった。僕は、自分を嫌ってばかりだった。
あの時も、そう。僕は弱さに嫌気がさして投げ出したんだ。あの時の言いようのないむず痒さと向き合えないまま僕はここに…なんて、そんな話をしたかったのかは分からない。でも確かにあの瞬間、全開のおばさんを前に、口を開きかけた僕がいた。
それでも話せなかった僕は、「大したこと」を恐れたままなのだろうか。小さくなっていくおばさんの背中を見つめてそんなことを思っていた。そうしたら…
「初恋らしいよ」
「え?」
おばさんを眺める僕に声をかけたのはランドセルを背負った少女だった。
「誰かを見て、自分の言動に恥ずかしさを覚える。心の奥がむず痒くなる。
それって、自分を好きになろうとしてなるのを諦めた瞬間で。初恋に敗れた瞬間なんだって」
「え? 君エスパー?」
「は? ただの小学3年生だけど」
ませた小学生の、明らかに今この瞬間の僕に向けられた言葉が心臓を貫く。
「おじちゃん」
「…誰?」
「あなた」
「お兄さん」
「高校生?」
「大学生」
「じゃあ、おじちゃん予備軍」
「…え」
「え?」
「…」
「あのおばちゃんと話して、あぁ、自分はまだまだだな。すごいな。…って、思ったんでしょ?」
ちょっと違うけど、大方そうだった。
「あの人と初めて話すと大体そうなんの。で、おばちゃんに言ったの。みんな困っちゃってるよって。そしたらね」
…とませた小学生はあのおばさんの口調を真似て続けた。
「『誰かと比べたその瞬間は自分を見つめるし、至らないと思ったら、まだ自分を好きになれないなって思ったってこと。でもほら、それって自分を好きになってみようとしたわけでしょ? いいチャンスを蒔いてると思うけどねぇ』って。言ってた。最近の人は承認欲だけは強いくせに、自分で自分を好きになれないんだって。だからさ、おじちゃん予備軍も、初恋に敗れたんだよ、今」
よくもまぁスラスラとそんなに話せるなぁと、とても小学3年生とは思えない思考の持ち主を前に固まってしまった。でも、確かに一理ある。
「初恋…かぁ」
何を思って僕に声を掛けたのか…まだランドセルを背負う年の子に全てを見抜かれていたような気がして逃げ出したくなった。…何だか心臓がむず痒い。この恥じらいすらも初恋の症状のひとつなのだろうか? 凛として羞恥心と初恋の関係性を説いた小学生の彼女を見て思う。“この強さが僕に足りないモノなのかもしれない”と。
そんなことを考えていたら、目の前に広がる景色がゆっくりと脳に届いてくる。だだっ広い敷地に停められた何台かのバス。終点が営業所だったことに今更気付く。
そういえば、何でこんなところに小学生が…? と振り返った先にもう彼女はいなかった。
p.155|一日一鼓 Ⅰ 10月『ある世界の「誰か」の物語』
彼の嗚咽を聞きながら「泣かないでよ」なんて言えなかった。
言いたいことはたくさんあった。でも溢れ出る涙が邪魔をした。いつまで保つかわからないこの人生。出会った途端に別れの準備をするのはワタシの悪い癖だろう。でも、思わずにはいられなかった。“出会ってしまった”と。
ワタシがいなくなっても彼と二人で、そしていつかは一人でしっかり生きていけますように。ワタシのいない人生で、ワタシの分まで生きられますように。彼女の中の強い幹がたくさんの思いを実らせますように。そう願いを込めた。
「みのり! どれにする?」
3年後、ワタシはまだしっかりとこの人生を歩んでいた。彼女が主人公となったこの人生を。明日は、彼の薬局が開業する日。薬学を志した彼が、まさかここまでくるとは思っていなかった。3歳になる娘の手を引いて花の香りに包まれる。
「これにする!」
ラベンダーをぎゅっと握りしめるみのりの手。彼女の小さな手には余ってしまうほど立派なラベンダー。ワタシたちは決まって、大切な日を一輪の花と共に迎えた。
彼が大学に受かった時
ワタシが退院した時
彼が卒業した時
彼と家族になった時
みのりが生まれた時
決まってワタシたちは、ラベンダーを送った。今日もまた、ラベンダーでお祝いをしよう。みのりが選んだラベンダーで。
みのりが10歳になった。
明日はシュンくんとお出掛け(デートだと思うんだけど)の約束があるとかで、3着も服を持ってきた。恋が実るといいね、なんて言ってみたら怒られた。
とっても幸せな時間。腕から伸びるチューブさえなければ、もっと…。なんて思ってしまう。決して口には出さないって決めているけど、私だってそう思うことはたまにあるの。でも……みのりの横に立つ彼の表情…ねぇ、あなたのその表情は、何? ぼんやりした目には何が宿っているの? 娘に好きな人ができた寂しさ? それとも別れの準備が速度を上げる寂しさ?
この10年があまりに順調すぎてワタシは準備を怠っていた。だからきっと、サボるなって天国から督促状が届いてしまったんだと思う。そう、思い込まずにはいられない。
“あと8年”
長くて短い戦いがこれから待っているのに、気が付いてしまった。
「…あぁ、ワタシ。さよならをしたくないんだ」
なんて。そんな簡単で、単純で、純粋な気持ちに私は蓋をしなければいけないんだろうか。素直に別れの準備をしなければいけないんだろうか。…いやだ。…いやだ!そんなの、いやだ!
そう、心の中で何度も何度も叫んでいた。でも、そんな気持ちを彼にだけは伝えるつもりはなかった。それなのに…。
「生きたい」
なんて思わずこぼれてしまったのは、彼があんなことを言うから。
みのりが中学生になった。入学式にはどうにかワタシも行けた。でも、やっとのことだった。夜、彼が一人ワタシのところに来た。
「みのり、大きくなったよね」
「あっという間に制服か。反抗期も始まるのかな」
「それならもう…」
「え!始まった?」
「洗濯一緒に回さないでって言ったり、パパって言わなくなったり」
「そっか…また一つ成長感じるね」
「卒業式はさ、盛大に祝おうな」
「そうだね」
「成人式はさ、みんなでお酒飲もう」
「みのり、お酒強いかな」
「就職が決まったら、名刺入れをあげようか」
「何になるんだろうなぁ」
「結婚式には、一緒に出ような」
…気が付かないふりができないくらい、彼の瞳からは涙が溢れ出していた。
彼の嗚咽を聞きながら「泣かないでよ」なんて言えなかった。…ワタシ以上に彼が辛いことを知っているから。
「ずっと一緒にいたいよ」
彼から初めて聞いた「ずっと」だった。
p.180|一日一鼓 Ⅰ 11月交差点『花束を飾れない女』
花。花壇に咲いているうちは綺麗に色を見せるのに切り離された瞬間、衰退の一途を辿る。それが、花壇に咲く花なのだ。
寿美なんてめでたい名前をつけられたけど、寿美を「すみ」とすぐに読める人はそう多くはなかったし私の幸薄さを先に読み取る人は嫌みたらしく「いい名前ですね」なんて言ってくる(私の思い込みだって両親は言うけど)。何よりも、私の人生めでたいことなんて一度もなかった。…いや。ない訳ではない。でも、めでたいことの直後には決まってそれを上回る悲しみに襲われた。そういう出来事がいつも起きた。
それが私の人生なんだと諦めたのは、ちょうど今から10年前のことだった。
10年前、17歳の夏。
長らくお世話になった病室とお別れし、久々に家の玄関に靴を並べた日。彼もまた、私の退院を祝してテーブルを囲んだ。高校にも通えていない私にとって2歳年上の彼は家庭教師(…病室教師と言うのだろうか)だった。青春も何もない私に、青春が詰まった彼はいろんな話をしてくれた。病室から見える花壇が彼から聞く青春話に色を添えた。もしかしたら(確信を含んだ“もしかしたら”だが)彼は私を好きだったかもしれない。少なくとも、私は確実に好きだった。
退院してようやく彼と青春を謳歌するんだと思っていた。勝手に。なのに…。
なのに…勝手に彼は消えていった。私よりも先に、私を置いて。
彼の優しさが彼を殺した。事故だったけど、彼の優しさがなければ彼は死ななかったはずだ。ベビーカーを押す女性の代わりに、ベビーカーの中にいる子供の代わりに
彼女たちを守って…。大勢の犠牲者を生んだ大きな交差点には色とりどりな花束がこれでもかと言うほど並んでいた。彼から聞く青春話に色を添えた花が大好きだったのにあの交差点で日毎に枯れていく花を見ていると苦しくなった。
花。花壇に咲いているうちは綺麗に色を見せるのに切り離された瞬間、衰退の一途を辿る。それが、花壇に咲く花なのだ。花にとっての花壇は…
花にとっての花壇は
私にとっての彼で
父にとっての母で
母にとっての私で
祖父にとっての競馬で
祖母にとっての畑で
(もしかしたら彼にとっての私?)
つまり、彼のいない私の人生は花壇から切り離された花と同じだった。
それを示されているようで花束を見て枯れていく様子を目の当たりにするのはあまりにも酷だった。それでもやはり、あの頃病院での日々を彩っていたのは花だったし
彼も両親も友人も、もしかしたら花壇に咲いていた花すらも誰もが願いを込めて私に花を贈ってくれた。だから「花」を嫌いになることはなかった。
p.186|一日一鼓 Ⅰ 11月交差点『“ただの”17歳の誕生日』
冬の始まり告げるのは白い息でもマフラーでもない。僕にとってはこの朝日だった。
冬の始まり告げるのは白い息でもマフラーでもない。僕にとってはこの朝日だった。刺すような、それでいて高くから俯瞰しているかのよう。そんな日差しが僕は好きだった。
今日も退屈極まりない箱の中に向かっていく。去年も、先週も、昨日も、今日も、明日もずっとそうなんだと思う。でもこの季節が一年に一度来るのなら退屈極まりない箱に向かうための朝も耐えられる。
「ハナ!おめでと~!!!」
廊下から聞こえてくる甲高い声に鬱陶しさを覚えるようになったのはいつからだろう。小さなロッカーにお菓子や写真やキラキラした何かを詰めてサプライズ…。「Happy birthday」と書かれたタスキをかけてオモチャのティアラまでつけて。正直言って僕には理解できない。されてる側だって本当は「サプライズ」にsurprisedなんてしてなくてホッとしてたりして…なんてことすら考えてしまう。
世間の女子高生に聞いてみたい。
「自分の誕生日に何も準備されていなかったら?」
「自分の誕生日を誰も覚えていなかったら?」
“そんなこと考えたことない”なんておめでたい人だって世の中にはいるんだろうけど、僕はどうしてもそんなことを考えてしまって、ゾッとしてしまう。でもまぁ、僕の知ったことじゃない。だから僕は、誰にも言わずにひっそりと年をとっていく。ほら今日だって。
タスキやティアラをつけた彼女とは雲泥の差だけど、僕も今日17歳を迎えた。
彼女と同じように一歳年をとった。彼女となんら変わらないただの17歳になった。誰かに祝ってほしいとは思わないし、誰かに散財させてまで大して欲しくもないプレゼントを貰いたいとも思わない。ただ…ただ一つだけ願うなら…
キーンコーンカーンコーン
チャイムが僕の思考を妨げた。今日も退屈極まりない箱の中で退屈極まりない時間を過ごしていく。
“ただの”17歳の誕生日をいつもと少し違うものに変えたのは退屈極まりない1日の締めくくりに準備されていた15分間だった。
夜。
僕が乗るいつものバス停から次の停留所まで豆柴のシキブを連れて歩いてた。そしたらちょうどバスが来て、なんだか不思議な眼差しで花束を眺める女性が降りてきた。彼女は、いつもここからバスに乗ってくる30手前くらいのお花屋さんだった。
p.299|一日一鼓 Ⅰ 1月『躍らないで』
それはね、喪失感って言うんだよ
一日一鼓/0130
― プール上がりの寒気にも似た、体温が消えていくような感覚。分かる?
知っているような気がする。
でもいつ感じた何なのか、
僕には答えが見つからなかった。
―それはね、喪失感って言うんだよ
僕の人生にその3文字が存在していたとしたら
それは1つ目の人生が終わる前のことだと思う。
一日一鼓/0131
ずっと一緒に遊んでいたりょうにぃと僕の両親が
僕らの家から出てくるのをたくさんのカメラが撮っていた。
次の日のテレビに、僕の家が映っていた。
それから僕はりょうにぃにも両親にも会えていない。
思えば、喪失感…いや、感情というもの全般が見えなくなったのもあの頃からだった。
p.363|一日一鼓 Ⅰ 2月another story『翠雨と言うらしい』
いつか船に乗ったら先端で両手広げるから支えてねって言うんです
「ほぉ~。あんたが指輪とガーベラをくれた男かい。深夜の海でプロポーズした? そうかい、そうかい」
老女はなんだか楽しそうである。
「タイミングが悪かったんだねぇ。あの子が運命なんて信じなくなってから出会ってたらもっと違ってただろうに」
「彼女、七夕に雨が降ったら織姫と彦星は会えたかなって心配になるんですって。レストランの誕生日サプライズ、何件もあったら気まずいじゃないですか? 彼女はそれを、誕生日が同じ人がこんなにいるんだって喜ぶんですよ。あと、公園デートしたら四葉のクローバー見つかるまで帰らないし。それから、恋愛映画に影響めちゃくちゃ受けます。いつか船に乗ったら先端で両手広げるから支えてねって言うんです」
「それはあんた、映画の運命に従えば沈んじゃうじゃないか」
「ですね。でも運命とか信じちゃうロマンチックなところがいいんです。そりゃあ運命の人になれていたらって思いますよ? でも、この一年ずっと考えてて思っちゃったんです。運命の人を探し続ける彼女も、愛おしいなって」
気付いたら頬が緩んでいる豪。そんな彼に、老女が真剣な眼差しを向ける。
「あんた、愛してたのかい?」
「(照れくさそうに)愛とか…そんな…わかんないですけど。でも、ずっと彼女の隣にいたい…とは思ってました」
p.373|一日一鼓 Ⅰ 4月『白昼夢 - [Day1]』
誰かの中で名前を思い出せない消息不明の男になっているのかもしれない。
春。
雨に濡れた桜を踏みつける足取りは社会人を7年経験した絶妙な貫禄……いや絶妙な慣れを醸し出していた。この7年間、それなりに歩んできたつもりだし、それなりに結果を出してきたつもりだし、それなりに人付き合いも上手いほうだったと思う。そんな“それなり”の30歳男になろうとしていた。
学生時代の友人は結婚、出世、転職、消息不明…とさまざま。もしかしたら俺だって、誰かの中で名前を思い出せない消息不明の男になっているのかもしれない。それくらいにはやっぱり人付き合いも“それなり”に上手く済ませてきてしまった。
あと2ヶ月で30代に足を踏み入れる。
あいつ、どんな大人になったんだろうと、最近たまに名前を忘れてしまった高校の同級生の顔が浮かんでくる。高校時代はもちろん、学生時代でも30歳って「おじさん」だと思ってたけど学生という安全ベルトが外された途端、20代と30代の経験の差を見せつけられるようで早く30歳になりたいと願っていた。そのはずだった。なのに、そんな焦りも、不安も、履歴書に連ねた熱い思いもいつの間にかなくなってしまった。どこに行ってしまったのか、いつ落としてきたのかも分からない。ひとつだけ分かっていることは俺のなりたかった30歳は、この俺ではないという悲しい現実。こんな“現実”が30代という立派そうな肩書きの影に隠れた“真実”なんだとしたら、そんなに焦らなくても君には立派になる未来はないから期待なんてしてくれるなと昔の自分に伝えてあげたい。
あぁ………やっぱり、こんな30歳になりたい訳、なかった。
人は変わるけど、いつどのタイミングでどんなふうに変わるのか。それが分かる人って少ないと思う。毎日の少しの会話や喜びやストレスや落胆が7年後の未来を大きく左右する。いつに戻れば俺は、なりたい30歳というものになれたのだろう。
「30歳って、もっと立派だと思っていた。でも案外そんなこともなかった」
それで片付けてしまうのはなんだか少しだけ悲しくて、まだどこかに「なりたかった30歳」という希望が残っていると信じたくなってしまった。20代最後の悪足掻きだったのかもしれない。
それなりに生きてきた俺の、それなりに考えてそれなりに出した結論は……
「それなりが作り出した世界との決別」
p.384|一日一鼓 Ⅰ 4月『白昼夢 - [Day X]』
写真に嫌われてるんだろうね
1ヶ月以上も前のことを、人はどのくらい覚えているだろうか。
正確には「39日前」のことをどこまで覚えているだろうか。
いま目の前で本を読んでいるあのおじさんは、39日前に誰の本のどんなシーンを読んでいたのか覚えているだろうか。
ベンチで前髪にカーラーをつけるあの女子大生は39日前の“ある明るい時間”に誰とどこにいたのか、覚えているだろうか。
俺は覚えている。はっきりと。
39日前のこと。
あの日の、あの時の、あの瞬間の青い瞳に吸い込まれそうになった感覚も、折れた枝を思って心が濁ったのも、彼の後ろ姿を微かに、でも確かに疑ったことも覚えている。確かにあったはずだ。
綺麗な発音で日本語を奏でる青い目の青年。
ポラロイドのフィルムが写す俺のボヤとした顔。
婆ちゃんが大事にしていた桜の木に“似た”木。
年輪を見せたままこちらを見据える婆ちゃんの桜の木。
婆ちゃんの木と青い目の青年を写したはずのポラロイドのフィルム。
有ったはず。会ったはず…そう、俺は彼に会ったはずだった。
日本の、息が詰まるほどの平和が蔓延する空港のベンチで俺はフィルムを眺めている。向こうで撮った写真が手帳を膨らませていた。決して上手くはない。幻想的な写真でもない。俺が歩いた記録だった。(記録…う~ん、記憶…存在の証明?)
とにかく、どんなにかっこいい言い方を探しても、芸術作品という写真のジャンルからは程遠いと言うことを想像してほしい。そんな写真を抱えて俺は今、本を読むおじさんの前で、髪を巻いている女子大生の横で、この空港のベンチで、記録であり記憶であったはずのたった一枚のフィルムを眺めている。
それは、婆ちゃんが大事にしていた桜の木に“似た”木と、青い目の青年を捉えたはずのフィルム。もう、何も写っていない真っ黒なフィルム。
今から39日前の“あの日”。
俺の隣に、彼はいたのだろうか。彼は存在していたのだろうか。
あの日。
木が聳え立つ公園でじっとフィルムが彼を見せるのを待ったが、フィルムの中で彼が笑うことはなかった。
「写真に嫌われてるんだろうね」
なんて冗談を言う彼の横で、笑えなかった。白夜の中で出会った青年が本当にただの青年だったという確証を持てずにいた。日本語が飛び交うことが珍しい国の、日本では体験することのない“夜が来ない日々 ”の中で流暢な日本語を使う彼。
写真は彼を写さなかった。
p.418|一日一鼓 Ⅰ 6月 再会 ー まとめられない私の物語『緑色と、答えてもいいのですか?』
晴れ間に見える雨の色は?
講義のサボり方を知った21歳の夏。
衰退の「た」の字まで見えている街を目指して電車に揺られた。人よりも植物の方が生き生きとした街の竹に囲まれた渓谷を歩いていた。あの頃のように。すると…
「晴れ間に見える雨の色は?」
背中に向けられたその声は、紛れもなく彼のものだった。変わらず彼は問いかけてくれた。変わってしまった私に。“晴れ間に見える雨の色は?” と。
この先ずっと晴れ間の雨の色を問いかけ続けるのだろうと信じて疑わなかった過去があった。あの頃の私には信じることの出来ない未来がいまここに広がっている。私にはあの頃のように堂々と心踊らせながら答えることがどうしても出来なかった。
“長い間この地を見つめる神様すら知らない僕たちの「今まで」と「これから」がきっとある”ー確かにそうかもしれない。
“でも、この雨だけは知っている”ー確かに…そうかもしれない。
雨は知っているのかもしれない。私が晴れ間の雨を記憶の奥底に仕舞い込んでしまったことも、透明なものが見えなくなってきていることも。
ねぇ、ムツくん。もう君の知っている私ではないかもしれないけど、それでも「緑色」と、答えてもいいのですか?
p.450|一日一鼓 Ⅰ 7月『 』
クラゲには感情がないの知ってました?
「クラゲには感情がないの知ってました? 私、それ知った時結構ショックだったんですよね」
「どうしてですか?」
「あんなに美しいのに、その動きには感情が伴っていないんですよ?」
「…もしかしたら、感情が伴ってないから美しいのかも」
感情が育てる人間の醜さとかがないから美しいのかも。
と、思ったが口には出さずにいた。…彼女が深掘りするまでは。
「どう言うことですか? クラゲに感情があったら美しくなくなるんですか?」
「それは…分かりませんけど」
「でも、感情が伴ってないから美しいって、そう言うことですよね?」
この時、確かに感じていた。この人は面倒なタイプだ、と。そして同時に、彼らのようで少し安心する、とも。だから言ってしまったのだと思う。
「クラゲには、感情が育てる人間の醜さとかがないから美しいのかもしれません」
言葉の意味を咀嚼するようにゆっくりとワインを飲む彼女の横で余計なことを言ってしまったと後悔していた。余計なことを言わないことが父の拳と体中のあざの教えだったのに。顔が熱い。何もかも手元で揺れるワインのせいにしておこう。なんて、一人で考えていると彼女が口を開いた。
「藤崎さんは…感情が嫌いなんですね」